プロダクトに魂が宿らない理由 ─ 吉本ばなな氏の炎上エッセイから考える「物語の力」

みなさん、こんにちは。

最近、吉本ばなな氏がnoteで販売した独白風のエッセイがネットで話題になっていますね。

参考:クラウディクラウドファンディング(note)

賛否両論が渦巻いていて、吉本ばなな氏いわく「炎上している」状態なのだそうです。私もさっそく購入して読んでみたのですが、そこで改めて強烈に感じたのは、「文章というメディアが持つ力の強さ」でした。

文章は、読む人それぞれが自分の境遇を重ね合わせ、勝手に深読みし、勝手に心を揺さぶられるメディアです。そこで消化しきれなかったモヤモヤや感情を抱えた人が、SNSで意見をぶちまけることでさらに波紋が広がっていきます。

正直なところ、音声メディアや動画メディアでは、ここまで深い批判や反応は起きにくいと感じています。

なぜ、文章だとこれほどまでの反応が起きるのでしょうか。

音声には「声色」があり、動画には「表情」があります。そこには良くも悪くも、送り手のニュアンスという「補正」が働きます。しかし、文章にはそれがない。だからこそ、読者の脳内で都合よく補完され、増幅され、時には歪められて伝わります。

つまり文章とは、読者の心の空白にすっと入り込んでいくメディアなのだと思います。


プロの「淡々」は、一般人の「淡々」とは違う

ばなな氏は今回の文章について、「感情で勢いよく書いている」のではなく、「淡々としたもの」だと語っています。

参考:単なるクラウディクラウド(note)

ですが、プロが言う「淡々」は、ただの無表情や無感情とはまったく違います。

  • 感情をあえて抑える技術
  • すべてを語らずに余白を残す技術
  • 読者の想像力をそっと誘導する技術

これらが極限まで積み重なっているからこそ、一見淡々としているのに、読む人の心の奥底を鋭くえぐってくるのです。そのため、読者が勝手に自分の古傷や痛みを重ねてしまう。

だから炎上するし、だからこそ熱狂的に刺さるわけです。


AIが同じ文章を書いても、同じ反響にはならない理由

ここで少し、テクノロジーに目を向けてみましょう。

もしAIがこれとまったく同じ文章の「型」や「構造」を真似して書いたらどうでしょうか?「吉本ばなな風で」とお願いすれば、いとも簡単に同じような文体の文章が生成されます。

しかし、断言しますが、同じような反響が起きることは絶対にありません。

なぜなら、そこには宿るべき「背景の温度」がないからです。

  • その文章が生まれるまでに、どれほど葛藤したのか
  • 言葉をたった一つ選ぶときに、どんな痛みがあったのか
  • そもそも、これを世に出すべきか迷った時間
  • 書き手がこれまでの人生で積み上げてきた堆積物

こうした、人間特有の「ドロドロしたもの」がAIの文章には欠けています。

読者は驚くほど敏感で、無意識のうちにそれを感じ取ってしまいます。だから、AIの書いた文章は「たしかに上手いけれど、どこか軽い」と言われがちなのです。

文章の「魂」というのは、結局のところ、その人間が泥臭く生きてきた重さからしか生まれないのではないでしょうか。


なぜ、一般的なプロダクトはユーザーに刺さらないのか

今回のばなな氏のエッセイを読んで、私はもう一つ、自分の仕事にも通じる強烈な気づきを得ました。

それは、「なぜ世の中の多くのプロダクトは、ユーザーに深く刺さらないのか」という問題です。

おそらく、理由はばなな氏の文章とAI生成の文章の問題とまったく同じなのだと思います。

プロダクトの奥に、作り手の「ドロドロしたもの(物語)」がないから

どんなプロダクトであれ、最初は誰かの「作品」として生まれるはずです。作品には、作者の思い、葛藤、美意識、そして痛みが宿ります。その宿った「魂」こそが、最初に人の心を動かすエネルギーになります。

しかし、一般的なプロダクト開発のプロセスを進むうちに、その魂がどんどん削ぎ落とされていってしまうことがよくあります。

  • 綺麗なペルソナを設定する
  • 他人の心をロジカルに想像する
  • 「他人のため」に綺麗に作る

もちろん、これらはマーケティングや開発における正攻法ですし、間違いではありません。ですが、ここで最も抜け落ちてしまいがちなのが、「自分ごと」として向き合えているかという点です。


プロダクトに必要なのは「自分が使ったらどう思うか」という世界観、作品性

たとえ最終的に自分がメインユーザーにならないプロダクトであっても(受託開発などをしていると、そういうケースも多いですよね)、

  • 「もし自分がこれを使ったら、本当にどう感じるか?」
  • 「自分なら、ここをどうしたいか?」
  • 「自分だったら、どの部分にちょっとした違和感を覚えるだろうか?」

こうした問いを、どこまで徹底的に、泥臭く考え抜けるか。

これこそが、開発プロセスの中で量産品になってしまいがちなプロダクトに、もう一度「作品性(魂)」を取り戻す唯一の方法だと信じています。

プロダクトが誰にも刺さらないのは、機能が足りないからではなく、作り手の内側にある「物語」が存在しないからです。

逆に言えば、作り手の執念や物語がしっかり宿ったプロダクトは、それだけで理屈抜きに人の心を動かす力を持っています。今回のばなな氏の文章は、そんなものづくりの原点を、強烈に思い出させてくれました。


人はいつでも「物語」を求めている

結局のところ、私たち人間はいつだって「物語」を求めている生き物なのだと思います。

他人の濃厚な物語に触れることで、自分自身の人生を整理したり、うまく言えなかった自分の痛みを言語化したり、「これでいいんだ」と自分の正しさを確かめて癒やされようとしたりするわけです。

文章が炎上するほどのエネルギーを持つことも、プロダクトが誰かの心に深く刺さることも、すべては「そこに物語があるかどうか」という一点に帰結します。

物語のあるものは人を動かし、物語のないものは、どれだけ綺麗に作られていても人の心に届きません。

吉本ばなな氏のエッセイは、そんな単純で、でも日々の忙しさの中でついつい忘れがちになってしまう大切な真実を、改めて思い出させてくれました。

プロダクトは作品として生まれ、作品である限り、そこには魂が宿る。

私自身もエンジニア・クリエイターとして、この原点を絶対に忘れずにいたいと思います。

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

それでは、よいプロダクト開発を!

カテゴリ: 事業開発

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