居場所は、与えられるものではなく、試行錯誤できる社会が生み出す

みなさん、こんにちは。

先日も書きましたが、私は現在、発達特性のあるお子さんの地域学習支援プロジェクトに参加しています。

活動の一環で、発達障害の当事者会に参加する機会がありました。

参加していたのは、当事者の方やそのご家族。そして私のように、特に診断を受けていない人も混ざっていたようです。

私は今回、他の参加者に障害の有無を尋ねることはしませんでした。逆に、自分自身の仕事や立場もあえて伝えず、フラットな一人の参加者として会話に加わることにしました。

先入観を持たずに、目の前の一人の人間として向き合いたいな、と思ったからです。

その結果ですが、正直に言うと……私にはどなたが発達障害なのか、まったく分かりませんでした。

もちろん、「集中力が続かない」「文章を読むのが苦手」「字を書くのが難しい」「人の話を理解するのに時間がかかる」といったリアルな悩みを語る方はいました。

でも、会話そのものはごく自然に成り立っていましたし、もし事前に「発達障害の当事者会です」と聞かされていなければ、私は気づかないままだったと思います。

そんな中、一つだけ印象に残った場面がありました。

「バスの車内にある電子案内が理解できなくて、怖くてバスに乗れない」

ある人がそんな話をしていたとき、別の人が「あのバス停って、人の並び方がおかしいよね」と話し始めました。するとさらに別の人が「そうそう、あそこのバス停はよくバスがオーバーランするよね」と続けます。

一見すると、話のキャッチボールが噛み合わず、話題があちこちに飛んでいるようにも見えます。

でも、これだけで「これが発達障害の特徴なんだ」と言い切ってしまっていいのでしょうか?

よく考えてみれば、会社の会議なんかでも、議題からちょっと脱線した話を始めちゃう人って珍しくないですよね(笑)。

私には、そこに明確な境界線を引くことはどうしてもできませんでした。


「困り感」というラベルの違和感

現在の発達障害の診断では、「困り感(本人がどれだけ困っているか)」が一つの重要な基準になっています。

でも、私はこの「困り感」という言葉に、少し引っかかりを覚えました。

「困る」というのは、多くの場合、「社会のルール」と「自分の特性」が噛み合わないことから生まれます。

  • 学校では45分間、じっと席に座って授業を受けるのがルール。
  • 会社では決められた時間に出社して、会議ではアジェンダ通りに発言するのがルール。

もし、その社会のルールがちょっと違っていたら? もし、働き方や学び方の選択肢がもっと多様だったら?

同じ特性を持つ人が、果たして「障害」と呼ばれていたでしょうか。

もちろん、社会がすべての個性を100%吸収するのは難しいですし、経済の効率を考えれば、多数派に合わせてシステムを作るのはある意味で合理的です。

それでも、私は「障害」というラベルだけで人を判断することには、どうしても違和感があります。

発達障害と診断される人の中には、特定の分野で驚くほど高い能力を発揮する人が少なくありません。逆に、診断を受けていない人だって、誰にでも苦手なことの一つや二つはありますよね。

人間って本来、誰もが能力の凸凹を持った存在です。 違うのは、その凸凹の「形」だけなんじゃないかな、と思うのです。


「助けてほしい」ではなく「認められたい」

当事者会では、「障害者雇用枠で働くにはどうすればいいか」という切実な話題も出ました。 生きるために、働くための最も現実的な方法を模索されていたのだと思います。

ただ、その会話を聞きながら、私は少し切ない気持ちにもなりました。

きっと多くの当事者の方は、「障害があるから助けて!」と言いたいわけではないと思うのです。

「一人の人間として認めてほしい」 「自分が役に立てる、必要とされる居場所がほしい」

ただそう願っているだけではないでしょうか。

障害者雇用制度は、多くの人に働くチャンスを提供してきた素晴らしい制度です。その一方で、「障害者」というラベルを前提にしてしか自分のキャリアを考えられないような、そんな空気感を生み出している側面もあるのかもしれません。


「プログラマ不要論」にも通じる話

障害者の「居場所」について考えているうちに、ふと私の身近な「プログラマの未来」についても頭をよぎりました。

最近は生成AIの進化がすさまじく、「これからはプログラマの居場所がなくなる」「プログラマ不要論」なんて声も耳にします。

でも、この議論もどこか似ている気がするのです。

「プログラマ」という職種のラベルで人を見るから、「AIに置き換わるから不要」という極端な結論になってしまうのではないでしょうか。

本当に目を向けるべきなのは、肩書きではなくその人が持つスキルです。

  • 複雑な問題をきれいに整理する力
  • 相手が本当に言いたい意図を汲み取る力
  • 全体を俯瞰してシステムを設計する力

コードを書く(プログラミングする)作業は、その中の一部に過ぎません。

AIの登場によって、求められる能力のバランスは変わるでしょう。でも、人が持つ「能力の組み合わせ(可能性)」そのものが消えるわけではありません。

必要なのは「不要論」で切り捨てることではなく、「役割を再設計すること」のはずです。


目指すべきは「試行錯誤のコストが低い社会」

発達障害の話から、プログラマ不要論へ。そして、気づけば私は「雇用そのもののあり方」について考えていました。

雇用とは本来、人に「居場所」を提供する営みだからです。 企業にとって採用は、その人の居場所を探す最初のドアを開けることです。

これまでの採用活動は「今の能力を正確に見極めること」に必死でした。でも、それって本質的ではない気がしています。

人は変わります。能力も伸びます。そして社会も変わります。 現にAIの登場だけで、数年前とは求められるスキルが一変しましたよね。

それなのに、私たちは「肩書き」や「診断名」といったラベルで、人を枠にはめて固定化しようとしがちです。

本当に必要なのは、「もし見極めが違っていても、後からいくらでも修正できる仕組み」ではないでしょうか。

  • 転職がしやすい
  • 大人になってからも学び直しがしやすい
  • 社内で職種を柔軟に変えられる
  • 一度失敗しても、いくらでもリトライできる

つまり、「試行錯誤のコストが圧倒的に低い社会」です。


居場所を試行錯誤して探せる社会をめざして

私は、発達障害をめぐる問題も、AIによる仕事の変化も、根本にある問いはまったく同じだと感じています。

「人をラベルで分類する社会」を作るのか。 それとも、「誰もが自分の居場所を探し続けられる社会」を作るのか。

このテーマは、決して一部の人たちだけのものではありません。

  • AIの進化でキャリアの転換を迫られている人
  • 子育てや介護で働き方を変えざるを得ない人
  • 病気などで一度キャリアが途切れてしまった人

誰もが人生のどこかで、自分の居場所を改めて探しなおす日がやってきます。

だからこそ、一度決まったラベルに人を当てはめ続けるのではなく、「今、自分が輝ける場所」を何度でもトライ&エラーで探せる社会の方が、めぐりめぐって全員を豊かにしてくれるはずです。

「居場所」は、誰かからぽんと与えられるものではなく、 人と社会が何度でも出会い直し、試行錯誤を繰り返せる仕組みの中から、じわっと生まれてくるものなのだと思います。

みなさんは、どう考えますか?

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

それでは、よい居場所探しを!

カテゴリ: その他

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