比較という宗教

みなさん、こんにちは。

突然ですが、質問です。

「人はなぜ、こんなにも他人と自分を比べ続けてしまうのでしょうか?」

そして、なぜその「比較の沼」からなかなか抜け出せないのでしょうか……。

先日、東大卒の会社員の方がこれまでの人生を振り返った、ある生々しくも切実なnoteの記事(【懺悔】東大卒の筆者はどこで人生を踏み間違えたのか)とそのコメント欄をのんびり眺めていたのですが、そこでハッと気づかされたんです。

「学歴の頂点にいるような人ですら、周りとの比較や『正解探し』の呪縛に苦しんでいるリアルな独白を見て、もしかして日本の大部分の人は、『比較』という名の宗教の熱心な信者なのかもしれない」と。

今日はそんな「比較教」のお話と、そこからちょっとだけ脱会するためのヒントを、ゆる〜くお届けします。


生まれたときから「比較教」の英才教育

よくよく考えてみると、私たちの社会って人生のほぼ全工程が「比較」でデザインされているんですよね。

  • 子どもの頃の「内申点」
  • 青春を捧げた「偏差値」や「共通テスト」
  • 就活での「学歴フィルター」
  • 社会に出てからの「人事評価」や「昇進・昇給」

もう、見事なまでに「他人より上か、下か」の比較ゲーム! 比較しないと生き残れないようなシステムの中で育つわけですから、「比較するのをやめよう」なんて発想、そもそも生まれるわけがありません。完全にエリート信者としての英才教育を受けてきているわけです(笑)。


コメント欄にあふれる「敬虔な信者」たちの言葉

件のnoteのコメント欄を見ていて驚いたのは、「そもそも比べること自体、あんまり意味なくない?」とツッコんでいる人が、ほぼ皆無だったことです。(たまに見かけるのは、過去に燃え尽きちゃったり、メンタルをがけっぷちまで病んだりした経験のある方くらいでした)

大半のコメントは、こんな感じのストイックなもので埋め尽くされていました。

  • 「それは努力不足だ」
  • 「プライドが高すぎるのでは?」
  • 「適材適所ができていないからだ」
  • 「他人より劣っているのが悪い」

うーん、実に素晴らしい信仰心です……!

「比較されるのは当然だし、結果こそが人間の価値を決めるのだ」という大前提が、1ミリも揺らいでいないんですよね。これが「比較教」の恐ろしいところです。


高学歴な人ほど「熱心な信者」になりがちなワケ

おそらく、そのコメント欄には高学歴な方が多かったのだと思います。 実は、お勉強を頑張ってきた人ほど、この比較教から抜け出すのが難しくなるというトラップがあります。

  1. 比較のゲームで勝ち上がってきた成功体験があるから
    偏差値や模試の順位こそが、これまでの正義だったのです。
  2. 比較をやめると、自分のアイデンティティが消えちゃいそうだから
    「私は優秀である」という心の支えが崩壊する恐怖です。親から見放されるという恐怖もあるでしょう。
  3. 周りのコミュニティも「比較のプロ」ばかりだから
    会話の端々に「努力」「自己責任」といった比較前提のパワーワードが飛び交います。
  4. 「夢中」よりも「正解」を探す癖がついているから
    正しい学部、正しい会社、正しいキャリア……。でも、その「正解」って結局、誰かと比較した上でのランキングなんですよね。

で、偉そうに言っているアンタはどうなの?

「じゃあ、そんな分析をしてるアンタは、比較教からおさらばできたの?」と言われると……正直、自信はありません(笑)。

同級生がものすごく出世しているのを見たら、やっぱり「うわ〜、羨ましいな〜」って普通に思います。でも、じゃあ「自分もその同級生みたいになりたいか?」と聞かれたら、答えは全力で「NO」なんです。

なぜかというと、私はこれまでの人生で、選択のハンドルを他人に渡さず、自分で握ってきたから、選択権を他人に委ねるのが嫌なんだと思います。

就職面接なんていう「ザ・比較ゲーム」の場では、最適化できなさすぎて落ちまくりました(苦笑)。でも、それで良かったんです。他人の軸に合わせるゲームで勝つためにすり減るより、自分の軸で生きる方が、圧倒的にコスパが良くて楽ですから!


「比較教」をそっと脱会する、唯一にして最強の方法

使い古された言葉でちょっと恐縮なのですが、やっぱりこれしかありません。

「時間を忘れて、夢中になれることを見つける」

ゲームでも、料理でも、プラモデル作りでも、あるいはブログを書くことでもいいと思うのですが、人間、何かにドハマりして夢中になっているときって、他人の目なんてどうでもよくなりますよね。

  • 他人の評価
  • 世間の期待
  • ちょっとした見栄
  • SNSの承認欲求

これらが、ぜんぶ綺麗な「背景ノイズ」に変わるんです。WEB会議ツールのぼかし背景みたいな感じ。「夢中になる」というのは、他人に乗っ取られそうになった人生のハンドルを、自分の手元にグイッと引き戻す行為なんです。

これはサラリーマンを続けながらでも、趣味の範囲でも絶対にできます。わざわざ会社を辞めて起業する必要なんて全くありません。


そして「比較教」の勧誘は、今日も突然やってくる

「比較のゲームなんて降りちゃえばいいんですよ〜」なんて、今こうして偉そうに記事を書いている私ですが……。

実はついさっき、コンビニで猛烈な「敗北感」を味わいました。

私の前にレジに並んでいたサラリーマン風の方が、お釣りでもらった千円札数枚を、何のためらいもなく、めちゃくちゃスマートに募金箱へ入れたんです。

それを見た私。

「えっ……そんなサラッと、お札を……!?」
「自分なんて、いつも財布で邪魔になった小銭しか入れたことないのに……!!」

はい。心の中で勝手に他人と比較して、勝手に完敗して、勝手に落ち込みました(笑)。

「比較教」の勧誘は、こうして日常のいたる所で、油断した瞬間に忍び寄ってきます。気づいたらまた、熱心な信者に戻されそうになる。

だからこそ、今日も私は自分にこう言い聞かせています。

「まあいっか! 私は私、あの人は素晴らしい聖人!」

これくらいのゆる〜いスタンスで生きていくのが、現代社会はちょうどいいなと思っています。

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

それでは、よい一日を!

カテゴリ: その他

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